心 の 機 微     (元へ戻る)
 
 
 
 



  弔 意


                               民主党 衆議院議員 稲見哲男
                                    (2004.08.12 記)

私の後援会「いなみ哲男とあゆむ会」淀川区支部代表である長洲真さんが8月12日
朝ご逝去されました。かけがえなく、惜しみて余りある存在であった長洲さんを偲び、
心からご冥福をお祈り申し上げます。

短いお付き合いでありながら本当にお世話になり、精神的支柱として敬愛してきました。
2000年6月の総選挙を前に大阪府仏教会の推薦をいただき、仏教会の増田貞圓会
長に同行して十三本町の長安寺に長洲さんを訪問したのが最初でした。

「住職であった間は、特定の政党・候補を支援してこなかったが、自民党は自浄能力を
失いつつある。自自公連立政権、とりわけ公明党・学会の政治への執拗な関わりを許す
ことはできない。」とご支援を快諾いただき、落選後も心からの励ましをいただきました。

以来、後援会の組織化、淀川区支部の結成、代表への就任、3度目の挑戦となる昨年11月の選挙準備、選挙戦での宣伝広報物の作成など後援会の皆さんの先頭に立ってお世話いただき、初当選を我が事のように喜んでいただきました。

また、私の『十三まちづくりフォーラム』を契機に、十三の商店街のみならず、文化をキーワードとしたまち全体の活性化に向けて、“十三ジャズ”企画の中心人物として活動をされていました。平行して毎月開催されていた長洲さん自身がジャズの歴史などを語る“十三夜”も好評で、長洲さんの博学ぶりに参加者は毎回驚かされていました。

3月下旬、後援会の会合が終わった後、図書館に寄ったあたりから胸が苦しくなり何度も立ち止まりながら帰宅されたそうです。翌朝まで辛抱し済生会中津病院で診察を受けて心筋梗塞のため即入院となりました。

3度のカテーテル手術で梗塞は解消しましたが、辛抱している間に心臓の一部が壊死して健康体に戻ることはありませんでした。

後援会のこと、十三ジャズのこと、その他様々な世事から遠ざかっていただくことが養生と見舞いも最低限にしていましたが、長洲さんのこと、外出したり退院したりするたびに気に掛かっている事で無理して動くものだから、一日二日で病院に逆戻りすることが続きました。外出のたびに私の事務所を訪問され、あわてて自宅に車でお送りすることもありました。

7月31日に自宅を訪問した時には、奥様も退院4日目、今回は大丈夫みたいと率直に喜んでおられたのですが。

「心臓の機能が半分だから、生活のリズムをスローに、半分から3分の1にするように医者に言われている」とおっしゃる一方で、「社会と隔絶して細く長く生きるか、これまでどおりの生活でいつ爆発するかと考えると後者だネ」ともおっしゃって、私は、「自宅に訪問しますから知恵だけお貸しください」と自制していただくように何度もお願いしていたのですが、“生き急がれた”と思えてなりません。

最後まで私のことを心配していただき、10日の夜にも自宅に招かれ1時間あまりお話しました。後援会の今後の活動のこと、一昨年亡くなった母の法要のこと、“十三ジャズ”のこと…。翌日、退院後2週間で初めての外来の診察があるから、「お酒はどうか、自転車で出かけられるかなど聞いてみよう」とおっしゃっていたのが最期になりました。

12日午後自宅に弔問に訪れ、安らかなお顔を拝見し、今申し上げたようなことを思い起こしながら、万感の思いをこめて感謝申し上げました。               合掌
   

  一段落して、思い出すこと


                                                          サイト管理人 木本昇三
                                                          (2004.08.19 記)


12日、お昼過ぎに十三ジャズのKKさんから電話を頂きました。「長洲さんが今日朝に亡くなったょ」「うそー・本当」。驚きでした。
と云うのも、前日夜9:50にメールを貰っていたからです。
長洲さんの病状については、3/27(土)十三ジャズの出前ジャズで「淀川図書館」での「SAKURA」のライブの後、Kさんと別のライブ会場に向かう途中、棟の痛みを訴えられ、喫茶店でしばらく休憩し、ライブに向かわれました。
その夜、胸が苦しくなり、翌朝、中津の済世会病院へ奥さんとタクシーで向かわれ、そのまま即入院でした。
病名は「心筋梗塞」。
一度、5/1朝に家へ一時帰宅を許されたものの、その夜、今度は救急車で再び済世会病院へ。
その後退院されるも、7/2 再入院、7/28 退院でした。

長洲さんとの出会いは42年前に遡ります。
大阪の南御堂(難波別院)で大阪御堂合唱団を創設することを新聞で知り、高校で合唱部に入っていた私は、同じやるなら大学のクラブではなくアマチュアの合唱団で、と思っていて、既存の合唱団よりも始めから新たな合唱団の方がおもしろい、と大阪御堂合唱団の一期生として入りました。
この合唱団の設立準備段階から中心になっておられたのが長洲さんでした。
私は18歳、長洲さんは28歳でした。

団マネージャーは確か、稲垣→越川→長洲→木村→木本→伊藤・・・だったと思う。
私の一番多感な青春時代を殆ど御堂合唱団で過ごしました。
長洲さんとは、合唱団活動だけではなく、難波別院で開催された「全国同朋大会」の行事部として采配を振るわれた時も行事部の一員として参加させていただきました。これは私がまだ学生の時でした。
この全国大会をやり終えた時の感動は今も忘れません。
(先日7/11病院にお伺いした時にもこの時の話をしていました。お互い若かったなぁ〜、と。)

私達の結婚は団内結婚でしたが、その時の披露宴の司会をやっていただきました。
(もっとも、この類の行事での長洲さんは常にリーダであり、司会役でした。)
旅行から帰って来て長洲さん宅にお礼の挨拶に行ったときに長洲さんが話されたことを、今も覚えています。
「木本君なぁ〜、新聞記者でトップ記事を書く記者は二流の記者やでぇ、その記事を見てから書くのは三流記者やでぇ〜。一流の記者は判るかぁ〜」「一流の記者はなぁ、問題を作り出す記者やでぇ〜」「一流の記者にならな、あかんでぇ〜」

長洲さんと一緒に青春時代を過ごした私は色々な事を学びました。
今の私の物事の考え方、進め方の基礎は長洲さんを横で見て、学んだことです。

仕事の関係で1973年に近江八幡に移ってからは、長洲さんとも疎遠になりがちでしたが、再び一緒に色々なことをやりだしたのは3年前からでした。
大阪御堂合唱団の40周年記念演奏会に向けて、OBの会「響の会」を創ろう、という事になりました。
長洲さんがパソコンをやりだしたのはこの頃でした。
もっぱら長洲さんが私を人に紹介するときには「私のパソコンの先生です。」と云われていた。
67歳の人とは思えないほど、研究心旺盛で、ご自分で色々と調べ、判らないことがあると、質問が電話・メールで来て、先生を困らせました。「ホームページとサイトとはどう違うの?」「エクスプローラってどういう事?」・・・

大阪御堂合唱団40周年に向けて「響の会」サイトをインターネット上に立ち上げ、「御堂40年史」「仏教音楽資料館」を長洲さんがまとめ、サイトに掲載しました。
「仏教音楽資料館」の「仏教曲・曲目集」については今もサイトを見られた方からの問い合わせがあり、ご縁が展開しています。
亡くなる前日9:50のメールもこの問い合わせに関するメールでした。

その後、「十三ジャズ」「いなみ哲男後援会」と長洲さんの活動について行きました。
70歳近くにして、その情熱は昔の長洲さんそのままでした。
(時々、ボケたなぁ〜、と思うこともありましたが・・・)
(常に周りには長洲さん好みの若い女性が居るのも昔のままです???)
私も長洲さんとご一緒していると、青春に戻れました。

精進上げの席上、喪主の真史さんが言われていました。
「本当に急で皆さん驚かれたことと思います。一番驚いているのはご本人ではないかと思います。」

お通夜には700名の方々がお参りをされ、大阪御堂合唱団の古い仲間も40名ほど集まりました。

今回、お盆で滋賀へ帰ってきて、長洲さんに色々とお話をお聞きしたいことがありました。が、何も語らずに逝ってしまいました。

「開華院釈證真(カイゲインシャクショウシン)」 平成16年8月12日示寂 享年71歳                   合 掌

  心 の 機 微


訃報:長洲眞氏の連絡に寄せられたメールです。
それぞれの方々の心の機微に触れる内容をまとめました。

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◆From: HRさん(十三ジャズ)
Date: Fri, 13 Aug 2004 22:20:04

木本さんこんばんわ
長洲 真 様 訃報 驚きました。
振り返れば、去る3月27日(土)図書館でのSAKURAのライブの時が、最初で最後の出会いでした。
私の話に優しく答えて下さり問いかけもしてくださいました。
深く印象に残っております。
定かでは有りませんが70前後のお年ならば、まだまだお若いし、さぞ、皆様 残念に思っておられることでしょう。
今は、只ご冥福を祈るばかりです。
お知らせ有難うございました。

◆From: WHさん (十三ジャズ)
Date: Sat, 14 Aug 2004 01:51:39

木本さん
なんだか、ショックで・・・
何をどうしてよいかわかりません。
お電話頂いてありがとうございます。
言葉も言葉になりません・・・
ただただ、ご冥福をお祈り致します。

◆From: IYさん(大阪御堂合唱団)
Date: Sat, 14 Aug 2004 15:34:16 +0900

今日はお電話有り難うございました。
ショックです。
「大阪に出てきたらよってや。」とか時々クイズのようなメールが届いて四苦八苦したり、それがこのところ私も忙しくしておりメールも送ってなかったので、又なんか企画して頑張ってはるものと思っておりました。
長洲さんにいろいろ教えてもらったり、あちらこちらと連れて行っていただいたことが思い出されます。
だんだん涙がでて見えずらくなってきましたので失礼します。

◆From: MMさん(大阪御堂合唱団)
Date: Sat, 14 Aug 2004 21:02:04

木本昇三様

今日はわざわざ電話をいただきありがとうございました。
当直明けでボーッとしながらメールを読ませていただきました。
長洲さんにはとてもかわいがっていただき、私の精神的な支えであっただけにかなりのショックで、返事のメールを出す気力もなくご迷惑をおかけいたしました。
申し訳ありません。
このところ周りに訃報が多く、黒のスーツを着る機会が増えて気持ちが沈んでおります。

◆From: OT,Kさん(教室)
Date: Sun, 15 Aug 2004 13:06:15

木本 さま

長洲先生の突然の訃報に驚いております。
まだまだお若く、これからますます広範囲にご活躍をなさるのを尊敬の念をもっておつき合いをさせて頂いておりました。
本当に残念な気持ちでいっぱいです。
それよりも先生の無念のお気持ちのほうが、辛く感じられます。
お写経を通じて先生のあたたかなお人柄にふれ「人生の師」とも思っておりました私どもは今、出てくる言葉も少なくぼんやりとしております。
先生のご冥福をお祈りいたします。
ご連絡、有難うございました。                  

◆From: NMさん(十三ジャズ)
Date: Sun, 15 Aug 2004 16:42:33

木本様・・・・

こんにちは。
ご無沙汰しております。
何からメールしたらよいか言葉を失ってしまい、わかりません・・・

私は9日から帰省しており、本日15日の16時頃に帰宅してすぐにメールをチェックしました・・・・
まさか。。。。。
十三ジャズも一周年という時期に・・・

私は7日の夜中に長洲さんと少しだけメールをしておりました。
最近、『サーカス』の歌が気に入ってらっしゃるとのことで、また機会がありましたら、カラオケに一緒に行って私が歌います・・というお約束もしたのです。
でもまだまだ万全でらっしゃらないようなので、とても気にはしてたのですが・・・・まさか。。。

残念ながら明日のお通夜と告別式には、お伺いできないのですが、また日をあらためて長安寺にはお伺いしたいと思います。。。
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