おぉ!熱き おんなの戦い!           (元へ戻る)
  ー 大阪国際女子マラソン ー
 


 2004年2月のある日、「きもっちゃん、こんな物を作ったんやぁ〜 彼女にあげるんやぁ〜。」
長洲さんが自慢げに見せてくれた。それは10ページほどの1冊の冊子になっていました。
多分、これが長洲さんの最後の一文ではないだろうかと思い、ここに掲載します。
その時にデータを頂戴していて、原文は縦書きでしたが、ここでは体裁に少し手を加えました。
もちろん写真はこの時の長洲さんの撮影によります。

 




     おぉ!熱き おんなの戦い!
 ー 大阪国際女子マラソン ー 
               記述  長洲  眞



 2004年1月25日(日)、アテネオリンピック選考を兼ねた 大阪国際女子マラソン が、スタートと
ゴール地点となる長居競技場を中心に実施された。大方の予想を裏切り、東京マラソンで失敗した高橋尚
子は大阪大会を見送り、名古屋大会での再挑戦が予想されるとあって、いち早くアテネへの切符を手にした
野口みずきを除く残り出場2枠を狙い、渋井陽子・弘山晴美・千葉真子・坂本直子・大南博美・小幡佳
代子ら強豪選手が競って顔を揃え、外国招待選手7名に一般参加選手を含む480名が出場する大レー
スとなった。 
 先の衆議院選挙で知り合った渡辺由紀子さん(大阪市役所)が出場すると聞き、寒気も気にとめず応援
を兼ね、彼女の勇姿を撮影したく写友・下野隆男氏を誘い出向くことにした。あらかじめ狙いを定めておいた
大手前付近の沿道の一角に座を占め、愛器コンタックスAXに100〜300望遠ズームをセット、試し操作
を繰り返しつゝ、その瞬間を待った。


時刻が正午前だった性か、沿道を埋めるであろう観衆の姿も殆どなく、やけに取り澄ました風情の沿道だ
ったが、正午を過ぎた頃から観衆がぞろぞろ集まり始めた。折からの寒風!気温3.8度、横殴りの吹雪が舞う
最悪の天候のもと、午後0時10分、号砲一発、集団が長居競技場を飛び出した。
準備した携帯ラジオのレシーバーから刻々とレースの模様が伝わってくる。
「寒さとお互いを牽制したスローペースになりましたねぇ〜!」
苛立つような解説者の実況が流れてくる。
待つこと暫し、選手の通過を告げる超低速の広報車が重々しく通り過ぎる。やがて、ヘッドライトを点じた先
導車に導かれ 熱い女のイジ を賭けたトップランナーの一群がひたひたと迫ってくる。
覗き込む望遠のファインダーにテレビやメディアで見慣れた選手たちの顔、顔、顔! これぞという雰囲気を漂
わせ迫ってくる。知らず知らずシャッターを押そうとする指に力が入る。ピントを合わせる指にも力が伝わる。
昨夜から連写で狙おうと決めていた。
カシャッ! カシャッ! カシャッ!
快いシャッター音に自ずと興奮が体内を巡る。
トップグループに続き、一般参加選手が前方に姿を見せ始めた。お目当ての渡邊由紀子(ゼッケン262)さん
を探す。似たユニホームで中々見分けがつき難い。見逃すまいと眼が点になる。
「おぉ!来た!」
シャッターを押し続ける。秒間4枚のフィルムがかすかな振動を伴い作動する。
「なんと堂々たる走りっぷりじゃないか!」


思えば先の選挙戦中、あの清楚に控え目に行動していた彼女と、どうしてもオーバーラップしない。
「でも、いま眼前を走り抜けようとしているのは紛れもなく渡辺さんだ!がんばれ!がんばれ!」
気持ちを込めシャッターを切り続ける。その間、数秒!
「ゴールできなくてもいいじゃない! 1メートルでも2メートルでも距離を延ばせよ!」
走り抜けようとする彼女の背中に祈りにも似た熱い声援を送る。姿は遠ざかり、やがてビルの陰に消えた。
カメラを小脇に抱え、ふ〜ッと腰を下ろした。
すると脳裏に様々な思いが交錯し始めた。
「第一関門の17,5キロ京阪東口が通過できるかどうか、かなり厳しい状況です〜」
「昼間、接骨院で治療しました。本当に体はガタガタですが、第一関門通過をめざし根性出します〜」
レース前日のメールに彼女は不安をチョッピリ覗かせ、案じられたが、これなら大丈夫だ! ホッとした。






 時代が変わったんだ!=@そう受け止めざるを得ない。近年、女性の体位向上には凄まじいものをみる。
戦後の飢餓時代を知るものにとっては、将に、隔世だ。元来、女性には危険だと見なされ公式レースに認めら
れなかった女子マラソンが、その後の驚異的な女子の体力の向上と、それを証明する女性ランナーたちの相次
ぐ記録の更新で、遂に1984年第23回ロスアンゼルス大会から五輪正式種目へとその重い扉を開かせた。
快挙である!
 因みに、女子マラソンの始まりは1972年のボストン、わが国では79年の東京マラソンからだ。
自然界は時々刻々、常に進化し続けている。人間もその埒外ではなかったのだ。すべてが 無常!
そうなんだ! 極めて単純な想いに気付されると、不思議と熱いものがこみ上げてきた・・・・・

ギリシャの勇士が「わが軍、勝てり!」の朗報を伝えるべく、戦場マラトンからアテナイへの約40キロをひた走
り、戦捷を報じ死去した故事に因み始まったのがこのマラソン競技だと聞く。とすると、件の勇士には 祖国
に戦捷を一刻も早く伝えたい! という厳然とした目的があった。 では、今回のランナーたちにおいては? 
尤も、トップグループを形成するランナーたちは等しく アテネを狙う! という明白な目的がある。
が、一般参加選手においては・・・? 選手たちは何を考え、何を求め、かくも過酷なレースに挑むのか?
名誉? 栄冠? 誇り? 自己満足? ・・・ そんな素朴な疑問が胸をよぎる。 
自己への挑戦! 果たして、ただそれだけなのか? 他に何があるというのか???


 かって、エベレストに挑み、これを制したヒラリー卿に、ひとりの若い記者が質問を向けた。
「あなたは、なぜエベレストに挑戦しようと思ったのですか?」
唐突なこの質問に山男ヒラリーは、ジックリ時間をおき、静かに答えた。
「別段、特別な理由はありません。敢えていうなら、そこに、山が、あったから〜≠ナしょうか!」
なんとも機知に富んだ見事な答えではないか!
なぜ、山に挑むのか! そこに、山があるからだ!
 単純明快なコメントに会場は感動に揺れるかの異様な沈黙に包まれた。蓋し、名言である。
後年、どれほど多くの人々がこの言葉を引用したことだろう!
さりとて、今回の一般参加選手のなかで「そこに、マラソン大会があるから〜」などと答える人は決してあるま
いに・・・ 謎は一種の神秘性すら帯びてきた。


 「渡辺さんは、なぜマラソンを選んだの〜?」
選挙事務所で昼食を共にした折、尋ねてみた
「ダイエットですよ〜ある時、ウエイトアップにビックリしましてねぇー」
フフっと笑みをこぼしながら恥らうように彼女は答えた。
「ほんとに、それだけ?」と聞き返したい気持ちを抑え、言葉を飲んだ。


世紀のランナー、エミール・ザトペック(チェコ)がこんな言葉を残している。
勝利だけを狙うなら百を走れ! 人生を感じたいならマラソンだ! と。
マラソンは人生そのものだ、と言うのである。 調子に乗れば続かない! 安全に行けば勝利は望み難い!
相手に合せば潰される! 体調と相談しなければ続かない! 気温・天候に応じてレースする!
もうやめようよ≠ニ降魔のささやきが次第に激しく襲ってくる! なぜこんな辛いことやるのか?≠ニ自問も
湧く! いまにも崩れそうな気持ちが沿道の声援でもち直る! なんとしても完走したい!=@ この初志が
背中を押す!・・・・これこそ人生の集約ではないかとザトペックが問いかけるのだ。


「なにせ、この寒さでしょー。それにこの風ですよ! 先頭切ると損しますからねぇー お互いに、誰か、ペースあげ
てくんないかなぁー、って思ってますよー でも段々上がってきますよー 大阪城出る辺りかなぁ〜?」
聴き馴れた小出監督のコメントが伝わってくる。

 彼女は今どの辺りを〜? 心配していた第一関門は通過できたのかなぁ〜?
 治療していたという腰痛は大丈夫なのかなぁ〜。姿は見えないが激走しているであろう彼女
に思いを巡らしていると、遮るように下野氏の声がかかった。

「このあと、どうされます?」
気温も先ほどより幾分持ち直した按配である。が、やはり寒い!
「第2ポイントの大阪城をバックにできる場所へ移動しましょうやー」
「そうしますか」
二人は、重いバックを肩に、大阪城の堀に沿って、京橋口への緩やかな坂を歩んだ。

「ほんに、ええ場所ですなぁー」
「ええでしょ。ここか梅林の横か、ですけどー」
「ここでよろしいでー」
「じゃあー、ここで待ちましょ」
暫くすると報道陣をはじめ、多くのアマチュアカメラマンや夫々の声援部隊がふたりの両横に群がった。
「さすがぁー 元日報連ですなぁー」
選定ポイントの確かさに、感心の態で下野氏がしきりと持ち上げた。
一般道から大阪城内に通じるこの入口付近にも、まだ人影はなかった。ただコースを表示する赤い標
識だけが整然と並べられていた。


日報連<日本報道写真家連盟> に席を置いたのは1970年だった。近所で呉服店を営む吉村氏に誘
われ写真クラブを結成、我が家を例会場に設え、月一の例会を重ねた。この吉村氏の作品には一種の風格と
いうものがあり、好きだった。例会時には、この吉村氏、後に鳥写真で堂々プロになった川上緑郎氏、社会派写
真を得意とする上村氏らを囲み、時の経つのも忘れ写真談義に興じた。そんなことから当時はひとかどのカメ
ラマン気取りを決め込み諸処で撮りまくった。木村伊兵衛・土門拳・秋山庄太郎・島田洋助・なかでも強く
影響を受けた?のがアメリカライフ誌の報道カメラマン、ロバート・キャパ!だった。 

吉村氏と共に立ち上げた 十三写真クラブ も、川上、上村両氏の献身的協力で絶頂期にあった。
「好事魔多し」の喩通りアクシデントがクラブを襲った。慶事で郷里にあった吉村氏が帰路の機上、窓に映える
四国山脈の雪渓の美観に魅せられ、帰阪早々身支度を整え直し、その日のうちに、再度四国へ飛んだ。
そして彼を引き寄せた雪渓の撮影中、雪崩に呑み込まれ、無残にも帰らぬ人となった。
当然のことながらクラブに激震が走った。この予期せぬ悲劇も時の経過でようやく乗り越え、副会長だった上
村氏を二代目会長に据え、再開を図った。ところが再開間もなく今度は、その上村氏が信じられない暗室内
での事故で急逝! 結果クラブメンバーは慄き、ついには開店休業止む無しの状態に陥ってしまい、現在なお
休眠中のまゝでいる。当時、クラブメンバーの大半に、所属を認められたのが毎日新聞社主宰の日本報道写
真家連盟(日報連)だった。同社が開講する講習を幾度も受講し、報道写真の基本を教え込まれた。

そもそも報道写真は、一枚の写真に いつ、だれが、どこで、なにを が語られていなければならない、などと
徹底して教えられた。報道写真は風景物と違い 咄嗟の撮影 が要求される。難しさがそこにあることも知
った。と同時に意に叶った作品が撮れたときの、感動的な満足感も含めて・・・・・


 「そろそろ来ますかなぁ?」
「第一関門を無事通過していてくれたらなあ!」
そうこう案じているうちに先頭グループがはや姿をみせた。どこで飛び出したか千葉が一歩リードしている。
が、未だ固まりのまゝだ。再度の緊張感でカメラを構え、ふたりは無言でひたすらシャッターを切り続けた。
トップグループが行き過ぎ、いよいよ一般参加選手の通過だ!  ここまで来ると歴然と個人差がつく。
案の定、数人づつのグループがバラバラと続く。
「来ましたぁ!」
 ゼッケン<262>を目ざとく見つけ下野氏は叫びレンズを向けた。ファインダー越しにみる渡辺さんのストライ
ドは思いのほかにしっかり、しかも息の乱れも感じさせない! 目線もしっかりしている!  腕の振りもいい!
なによりも力みを感じさせない! ただひたすらゴールだけを目指している雰囲気だ!
 こりゃー大丈夫だ! がんばれ! がんばれ!=@声にならない声援を送りながら、咳き込むようにシャッター
を切った。







「どうです。一杯いきまへんかぁ〜? ガソリン補給せんと、寒うてあきまへんわ・・・」
よほど寒さが堪えたのか、チョコを口にする仕種で 熱燗≠促した・・・・
「そうでんなぁー 寒いの忘れてましたなあー」
「熱いウドンと熱燗ってのはどうですやろ?」
「よろしいなぁー」
ふたりは、首をすくめ、せかせかと京阪松阪屋8階の食堂へと足を速めた.


「お陰さまで、完走できました!」
嬉しいメールが届いたのは、それから5時間後だった。



       ― 後述 ―

ダークホースの一角、阪本直子が30キロ地点から独走! 後半素晴らしいハイピッチで、2位以下に2分
以上もの大差をつけ、マラソン出場3回目にして堂々の初優勝を遂げアテネへの座を引き寄せた。
タイムは 2時間25分29秒! 「信じられません!」 満面の笑みで勝利に酔った!

一方、「アテネる!」なる新語まで生み、今回のレースに賭け本命とされた渋井陽子は、予想もし
なかったスローペースの展開と、三日前に引き添えたという風邪で自らのリズムを崩し、後半ペースの
伸びを完全に欠き無念の敗退(9位)となった。
レース直後、報道陣を避けるようにスタジアムを後に宿舎へ戻った彼女を関西テレビの小倉智昭アナが見舞
った。同局も彼女に期待をかけ一時間の特番(17日午後4時)を組んだほどだっただけに、小倉アナにも無
念の情強く、彼女と悔しさを共有できたのだろう。
そんな小倉アナを前に気が緩んだのか絞るような声で
「遅すぎたぁー。こんな遅いの練習してなかったもの〜〜」
唇を噛み、やがて大粒の涙を頬に伝わせ、ついには床に崩れ堕ち、全身を激しく震わせ恥じらいことも忘れ、
声の限り号泣したという。 敗者が露呈した、なんとも痛ましい、なんとも過酷な光景だろうか・・・・・!
翌朝の朝番で、これを報じる小倉智昭アナの眼にも昨夜の涙が残こされていた。


果たせるかな、わが渡邊由紀子選手は、288位(タイム不明)・・・
カットライン 3百名だったと聞く! おぉー、あぶねえー でも、よ〜やったぁ〜!
改めて、こころから申します。 

   完走、おめでとう!=@そして 感動をありがとう!


                               <完> 2004.02.05 8:32 記

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